DONBURIのはじまりは室町時代。「丼」として人々の知るところとなるのは、江戸時代のこと。
その後半世紀の歳月をかけて、時とともに進化を遂げる。DONBURIの歴史を一挙公開!

芳飯(ほうはん)は、ごはんに主として鶏飯を用い、その上に具をのせ汁をかけて食べる、いわゆる“ぶっかけ飯”。ぶっかけ飯といえども、春日局の好物だったという上流階級の食べ物だった。もとを辿ればお寺の精進料理。野菜や乾物を細かく切って味をつけ盛りつけた。中国の陰陽5行説に基づいて、具には白、黄、赤、緑、黒の五色が使われたらしい。

握り寿司が登場し江戸の食文化が全盛となった文化・文政年間、江戸堺町の芝小屋の主人が、芝居を見ながら食べられるようにと温かいご飯にうなぎ蒲焼きを埋めたものを考案。これがうな丼のはじまりとか。

江戸時代に見られる初期の天ぷら店は、油と火を使うことから屋内での営業店は少なく、評判のお店の多くは屋台店だった。商売に忙しい露天商たちは座ってゆっくり食事をすることも難しく、行き着けの屋台で、天ぷらをご飯にのせて、その上から天つゆをかけてくれと、注文したことがはじまりらしい。立ったまま掻き込めるのはいいが、ご飯にかけると天つゆでは味が薄い。そこで味を濃くしてつゆが誕生した。
昔、隅田川の河口付近では、アサリがよく採れた。大漁のため単価は安く、調理は簡単、すぐできると、江戸深川の漁師たちが食べ始めたことがきっかけ。さらに素早くかき込みたいと、そのために味噌汁をぶっかけたにすぎなかったが、そこから深川丼が誕生したらしい。

文明開化以来、“牛肉”を食べる習慣が広まった日本。牛めしがまず一般に食べられるようになり、そのうち牛鍋(すきやき)の残りをどんぶり飯にかけて食べるようになったのが牛丼のルーツらしい。
鳥料理専門店「玉ひで」(東京都中央区日本橋)の五代目当主の妻・山田とくが1891年に考案したのが、親子丼。元祖玉ひでの親子丼は、割り下で鶏肉のみを煮て卵とじにしたもの。
「あつた蓬莱軒」(名古屋市熱田区)で、蒲焼にした鰻をのせたご飯を大きなお櫃に入れて座敷に運び、女中さんが小分け提供したのがはじまりとか。「いば昇」(名古屋市中区)がはじめたという説も有。

高畠増太郎さんがドイツ・ベルリンの日本人倶楽部にて、6年間におよぶ料理研究を経て帰国したのが明治45年。その後日本人向けにウスターソースをつくり、翌年大正2年に日本で初めてソースカツ丼を披露したとか。早稲田鶴巻町の自分の店で提供し、その後福井に戻ったため、福井名物ともなっている。
一方、大正10年に早稲田高等学院生だった中西敬二郎さんが考案したという説も。その他にも群馬県桐生市、福島県会津若松市なども「ソースカツ丼」発祥の地として名乗りをあげている。

カツ丼といえば煮カツを卵でとじたどんぶりを思い起こすはず。が、カツ丼元祖は、トンカツにソースをつけたソースカツ丼。当時高級品だった肉をさらに卵という蛋白で覆うカツ丼、今も昔も人気メニューだ。

日本生まれの中華料理風どんぶり。東京のとある中華料理店で昭和のはじめ、お客様から「ごはんに八宝菜のせてよ!」と頼まれてつくったのがきっかけだったとか。

ジェームズ・ケリーによると、1949年ハワイで「リンカーン・グリル」というレストランを営んでいたイノウエ夫人により発案されたとのこと。白米をよそった器にハンバーグを載せ、ソースをたっぷり。ボリューム満点、かつ安価なメニューに若者たちが飛びついた。 "Loco" =イカレた奴、あるいはLocal(地元)といわれている。このレストランの常連高校生のあだ名だったという噂も。また"moko" =「混ざる」(ハワイ語)。料理とあまり関係はないらしい。

東京の牛丼屋「吉野家」が、フランチャイズチェーン展開をスタート!一般家庭にも広く親しまれるようになる。その後、養老乃瀧、松屋、すき家、神戸らんぷ亭などが牛丼(牛めし)チェーンを展開。(「養老乃瀧」は後に牛丼からは撤退)。その後、牛丼をめぐる各社の戦いは加速する。1993年には、恵比寿にて神戸らんぷ亭が一号店の出店を発表し、その直後、2軒隣に吉野家を開店したというエピソードも。

牛丼チェーン各社が相次いで牛丼の代わりに導入!豚のこまぎれ肉を煮込んだものをご飯の上に載せたどんぶり。吉野家では「豚丼(ぶたどん)」、松屋では「豚めし(ぶためし)」、すき家は「豚丼(とんどん)」、なか卯は「豚どんぶり(ぶたどんぶり)」。

たとえば、東京・品川には
「品達どんぶり5人衆」
アメリカにもどんぶり進出
「DONDON」
東京駅・駅中にも
「新橋 鶏飯 どんぶり子」
